「SO, WHAT DO YOU REALLY WANNA DO? REALLY?」
この間、酔っ払った高校の大先輩に、何度も何度もこの質問をされた。酔っ払うと半分くらい英語になってしまうこの先輩。彼はこう続ける。
「おれだって、今まで何度も失敗してきたし、ああ、こうやっておけば良かったと思い返すことも少なくない。だからこそ、同じ轍を踏まないようにできることは何だって教えてあげたいし、求められればできる限り応じてあげたいんだ。」
半分英語、半分日本語でこんなことを言っていた。酔っ払って、手足はふらふらと宙をさまよっているのに、何となくこの人酔ってないんじゃないか、と思わせるほど、たまに出てくるコトバは鋭い。
帰り道のタクシーで、ふとDREAM GIRLSの「LISTEN」がかかったんだけど、ふとその夜の先輩の姿が思い浮かんだ。
ぼーっと窓の外を見る。
もちろん、今まで何度もいろいろな場面で後悔したことがあるけれど、
「なんで自分のチカラをもうちょっと信じることができなかったんだろう?」といった類の後悔の傷が一番深い。今振り返っても、「あの場面でもうちょっと自分のチカラとか直感を信じることができていればなー」という心地の悪い瞬間がいくつかあって、「あそこでこう舵を切っていれば、もう少し違っただろうな。」と、ふとした瞬間に遠くを見つめてしまう瞬間がある。
月並みだけど、キャリアの選択をする瞬間、それを選択する理由もあるし、それを選択しない理由だって
いくらでもあり得る。でも、本当に重要なことは、他の人の発言や意見に寄りかかるべきではない。それは当然なのだけど、それが自分にとって近い人、信頼できそうな人、自分のことを考えてくれる人のコトバであればあるほど、「だからきっときっと正しいだろう」と信じたくなることが多い。時として、それが自分の体験したことのないゾーンについての話だったら、「
きっと自分は体験したことはないけれど、あの人がこういうんだから、こうに違いない」。そう信じたくなる。だけど、そういった類の選択においては、絶対に自分以外の人間は責任をとれないのだ。誰がどう勧めたとしても、それがどんなにもっともらしく聞こえても、その発言者は絶対に責任を取れないのだ。だから、選択に後悔したときの「ロス」、つまり、そのアドバイスに従わずに「別の選択をしたときにあり得た自分」という名の代償は自分しか払うことができない。若ければ若いほどこの重さに気付かないんだと思う。
だから、それがどんなに客観的かつ的確なアドバイスだとしても、それによって「もうちょっと自分のチカラ・直観を信じていればよかった」と思い返すようなことであれば、そのアドバイスを従うことによって生じるプライスをよく考えなければならない。
「無理だよ」
すごい罪深いコトバだと思う。僕はこの言葉がものすごく嫌いだった。周りの大人が僕に無理だというたびに、多くの場合、「そんなはずはない。」と感じ、そして考えたものだ。でも、ときとして、「無理だよ」という言葉に、非情にも心が折られそうになるときもあって、そんなとき、そんな自分を、そして自分を取り巻く状況を激しく嫌悪した。
今思うに、それは「無理か無理でないか」の問題ではない。キャリアの選択においてある選択肢が「無理かどうか」というのは氷山の一角に過ぎなくて、その選択肢の先に何を見ているのか、その先に見ているものから逆に照らして自分をどう見るか、などもう少し広い観点から光を当ててあげられていたらと思う。
でも、やはり若者に「無理」という判定を突きつける大人は多いんだろうな。だから、少なくとも僕は、そうじゃなくいたい。アドバイスを求められたら、絶対に無理だと決めない、その人が希望する可能性、それ以上に、その人が気付いていない可能性に少しでも光が当たるようなアドバイスをしてあげられるような大人でありたい。かつての自分を思い返すたびにそんな思いを強くする。少なくとも自分が相談に乗ったあげた相手には、アドバイスの質はともかく、そういったハートで望んでいる。振り返って、今思うのは、「自分をちゃんと信じ」て選択をすることこそが、人生のまたとない醍醐味の一つであり、それができるからこそ面白いんだと思う。これを行動をもって示せたらなあ、きっと、たまらないだろう。
そして、もう一つ。色々後悔したとしても、じゃあ、仮にそのパスは通れなかったとしても、今の地点からどうやって何ができるかな?逆に、昔描いたそのパスではないパスを選んだからこそできることは何だろう?そうやって、構築し直してみると、気付きもしなかったものが生まれる可能性がある。そういった可能性もこれまた大人として生きる醍醐味の一つなんだろうな。
そんなフレームワークでやっているし、きっとこれからもそうだと思う(++:)