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休日の朝+タンザニアのコーヒーとタンザの子供たち-6月1日-

日曜の朝、今日は実はすごく早く起きて読書なぞをしていたんだけど、ふとした瞬間に眠気に負け、また小一時間ぐっすり眠ってしまった(++)

あまりにも天気がいいので、シャキッとするために目黒川を軽く30分くらいジョギング。

つがいのモンシロチョウが木洩れ日の中を飛んでいたり、鳩が突然羽ばたくのに驚いてお母さんに泣きつく3歳くらいの女の子がいたり、お店の人はそろそろランチの看板を川沿いに出し始めたり、そんなゆっくりした休日のスタートを見ながら、川沿いを走ってきた♪

軽くシャワーを浴びて、キーンと冷えたペリエを飲んだ後、タンザニア産のコーヒーの豆を煎ってみた。澤野工房の「Robert MALMBEG」からリリースされた「linnea」というCDを聞きながら、これをタイプしています。JAZZYだけどどことなくサンバ?な感じがとっても軽快。

休日の出だしとしては、悪くはありません(・・)

***

タンザニアのコーヒーはタリーズで買ったもの。

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これは、先日タリーズに行った時、ふとWFPとユニセフ主催の「それでも生きる子供たちへ」
(Invisible Children)の短編の一つ、「タンザ」を思い出したから。

【以下、「ルワンダの涙」、「タンザ」のネタバレありです。】

僕の中で、「ホテルルワンダ」、「ルワンダの涙」、「ブラッド・ダイヤモンド」、「ナイロビの蜂」とすごくお気に入りのアフリカ映画が続く今日この頃。世間でもわりとアフリカで話題になっている
し。そんな中、タンザのストーリーは、上記HPによると、

夜明けと共に走り出す子供たち。その手には、明らかに見合わない大きさの銃があった。
少年たちはルワンダで「自由」の名の下に強制的にゲリラ部隊に入隊させられた。
その中の一人、タンザはまだ12歳。スニーカーが一番の自慢だ。
真夜中、時限装置の付いた爆弾を持って建物に侵入するタンザ。
彼の無垢な瞳の目の前に映った標的は、自分が憧れる教室だった―。



すべての原色の色の鮮やかさが違う。アフリカの木々はとても深い緑で、空の色もすごく濃い青さ。その鮮やかさに軽く心を打たれつつも、映画に出てくるのは機関銃をもった子供たち。

「ルワンダの涙」でもこんな子供たちが出てきた。

ツチ族の粛清を図るフツ族は、フツ族の子供たちを徹底的に洗脳する。ツチ族がいかに劣っているかを叩き込み、拳銃を与え、殺戮のマシーンにしてしまう。そして、ちゃんとツチ族を殺せた子供は褒め称えられ、夜の宴で気持ちよく踊る。ツチ族を殺すことで、そういった大人の仲間入りができる、みたいなシステムを作り上げてしまう。

子供は素直なほどに残酷。きっと、機関銃を持って自分が優位に立てるということは人間の生存本能と矛盾はしないからかな。映画では、教育(洗脳)どおり、殺戮マシーンになる子供が描かれていた。

**

「ルワンダの涙」の主人公は、NGOで働く白人青年。
その青年は、ずっとルワンダで「キリスト教を布教させ、子供に教育を与えよう」というミッションで活動に加わっていた初老の宣教師の下で一緒に働いていた。

あまりにも有名なシーンだけど、ルワンダから国連の撤退が決まり、白人だけは国連軍と一緒に撤退が許されることになった。

そのとき、少数民族であるツチ族は、フツ族に囲まれていた。ツチ族を囲むフツ族の多くはツチ族の壊滅を心から願い、ナタを振るう。先日ケニアで暴動が起きたとき、暴徒の多くがナタを
持っていたけど、それに近い。日本刀とは違ったあの重量感のあるナタは、切れ味鋭い、というよりもぶった切る、みたいな感じなのだろうか。僕の目には、すごく残酷で、でもそのときの悲劇を象徴的にあらわしているものだと映った。

さて、ツチ族は、こんなフツ族に囲まれつつも、国連軍がいたため、自分の残されたテリトリーである教会やホテルにとどまる限り、フツ族から徹底的な攻撃を受けずに住んでいた。もちろん、
ホテルや教会の敷地から一歩でも踏み出すと、そこにはツチ族の殺戮を正義と信じて、また
その殺戮をゲームとして楽しむかのようなフツ族たちがたくさんいたのだけれども。

そんな状況の中、国連軍の撤退に伴って白人の人たちが次々と一緒にルワンダから撤退していく。ツチ族の人は残されたら自分たちが虐殺されることはわかっているから、自分たちも逃がしてくれと叫ぶけれども、国連軍に払い落とされる。そこに残ったら、確実に周りを取り巻くフツ族に殺されてしまうのに。

今まで数十年にわたってキリストを信じれば救われると教えてきた初老の牧師にも、教会を
捨ててルワンダから撤退するようにオファーが来る。でも、彼は残ることを決意する。

確かに自分がここに残ればツチ族の一味とされ、周りを取り巻くフツ族に殺されてしまうかもしれない。でも、自分はこれまでキリストの教えを信じれば救われると教えてきた、ルワンダのなかでツチ族であっても、フツ族であっても、教育がないものには教育を出来る限り施し、貧しさに苦しくルワンダの人々にキリストの教えを広めることで彼らを自由にしようと試みてきた、だけど、ここで国連軍と一緒に撤退するといままで私の教えを信じてきた人たちを見殺しにすることになる、それはできない。


今逃げて生き延びても、そのときルワンダの教え子を見捨てたということを、一生かけても償えないと感じたのかもしれません。

結局、彼は国連軍についていかずに教会に残ります。

この選択、僕だったらどうするだろうか?


**


その後、食料は足りなくて、子供が病気になったり、事態はどんどん悪化していきます。でも、外に出ると、ツチ族を殺したくてたまらなフツ族がいる。これにはゲリラ兵となった子供も含まれます。確か、実際に逃亡を図ったツチ族が殺されるシーンもあって、そのシーンはまるでハンティングのよう。ピストルで殺した後、ナタを持ったツチ族の大人や子供が集まり、まるでマンモスでも射止めたかのような歓声をあげて喜び、踊る。

あるとき、その宣教師は、包囲された教会の中にいた子供の病気にどうしてもクスリが必要なため、車で教会の外に行きます。隣町の薬局には、かつての教え子だったフツ族の青年が薬を売っていました。

その際、おもむろに名簿を取り出しながら、

「その子供はフツ族か、ツチ族か?」


と聞き、その子供の名前を聞きます。

その名簿が「殺されるべきツチ族のリスト」であることを悟った牧師は、その彼に大金をつかませて、名簿への記載をせずにクスリを入手します。

自分の教え子である青年とこんなやりとりをしなければならないなんて。

**

教会に撤退すべき白人がいなくなったので、いよいよツチ族が包囲している教会やホテルに乗り込み、ツチ族の大量虐殺をしになだれ込みます。

それを察知した牧師は、何人かの子供をワゴンの荷台に隠して載せて、教会の包囲網を脱出します。その途中、フツ族の検問に引っかかります。

検問をしているのは、かつて教会の教え子でもあった青年。

ひさびさじゃないか、牧師さん。どこに行くんだ?
まさかツチ族なんか乗せていないよね?


という検問に対して、車を検査されたら確実にそこにいる子供は殺されるので、何とか時間稼ぎを試みる。でも、ちょっと気に障ったのか、結局、その場で宣教師は射殺されてしまいます。

自らの教え子に殺される。

ルワンダの貧困には子供の教育と信仰が必要だと信じて教会をずっとやってきて、その信念に従って教えてきた、そして、その信念のために国連軍についていかずルワンダに残ったのに、最終的にはその教え子に殺されてしまう。

僕がこの場面に出くわしたら、一体どんな行動を取るだろうか?あまりにも現実離れをしすぎていて、想像をすることすら難しい。

例えば、ビジネスの世界でよく「ジレンマ」に直面するとかいうし、そのジレンマでこそリーダーシップの真価が問われるとかいわれることもあるけれど、この映画に出てくるようなジレンマは、世にいうそれとはまったく次元の違うシリアスなものだと、ふと実感。いわば90年代のホロコーストだから。

映画的には、その宣教師の時間稼ぎの間に子供が車から抜け出して、わずかに希望がつながる終わり方なのですが・・・


*******

ルワンダの涙でも、タンザ、でも描かれた子は同じ。洗脳された兵士にされてしまった。

タンザでは、小学校に忍び込み、時限爆弾を仕掛けて、翌日、みんなが授業をしている
タイミングで爆発させるように指令を受けた少年が、黒板にある自分と同世代の子の無邪気な
絵を見て、自分が学校に行って勉強をしたかった夢を思い出し、結局、指令に従って時限爆弾
をセットすべきか。10歳の子供には明らかに重過ぎるジレンマだけど、そんな姿が描かれています。

ちなみに、映画では、殺戮マシーンとされた子供の銃に、ロナウドの写真が大切そうに張ってある、そのシーンがとっても、とっても印象的でした。


**

一方で、普段の日常を走っている自分がいて、でも、世界でこういうことが起きていって思うと、別にいまやっているM&Aとかファイナンスの取引よりも何か自分のエネルギーを注ぐべきことがあるような気もして、でも、自分では何ができるかもよくわからなくて、そして、それでも日常は進んでいて、また、以前の40秒キスの記事に書いたけど、たとえばこういった問題がとっても世界的には重大な問題であることはわかっていて自分の中にある中途半端な正義感がそれに向かって自分を駆り立てると反面、それが100パーセント自分のインテレストとつながるかについて確証がもてなくて、それでも自分の中の中途半端な正義感や、いや正義感というよりもより「尊敬できる自分になりたい」という欲望も今のままでは満たされていなくて、めまぐるしい日常に引き戻されそうになりながら、その混沌の中で何とか最適解を見つけようと、いや、最適解を見つける機会を得ようと、なんとか準備を進めている段階かも。

**

おっと・・・・・・・・・・・・本当は産業再生機構の元CEO、富山氏のスピーチを聞いたので、それについて書こうと思ったのだけど、目の前のコーヒーを見ていたら思い切り脱線しましてしまいました、今日は時間切れ(++;)

(おしまい)
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by sipoftip | 2008-06-01 13:34 | 映画

アートとしてのエネルギッシュなコトバ、それは暴力的ですらある~8mile(その2)~

(前回の続き)

前回はラップのバトルが表現の自由市場でありまして、云々。

今回は、ラップのコトバが暴力的になる、というアートな本質と、表現の自由の内容規制はある程度認めなきゃコスモポリタンなTOKYOにはなれないぜ、という考えの衝突を備忘代わりにメモメモ



●コスモポリタンな社会では内容に踏み込んで規制しなきゃいけない場合もあるかも


この間のエントリでも少し触れましたが、ドイツとかヨーロッパではホロコーストの反省を踏まえてネオナチやファシズムに対する規制が厳しいです。テレビ番組、インターネットサイトなども禁止されているようであり、ネオナチのような政党を組成する自由も認められていない、という風に習いました。

これって表現の自由の「内容」に踏み込む規制で、日本ではすごくハードルが高いんです(=規制がすぐ憲法違反になる)。

日本の憲法は、「世界の中で何が正しいかわからないね」(価値相対主義)という前提に立って、「みんなで考えを交換し合ってもっと良いものを求めていく」という発想に立っています(表現の自由市場)。だから、「ファシズムを標榜する政党」「やはりヒトラーは神だとあがめる政党」も表現の自由の一環として認められるべきであり、その思想をどう思うかは、みんなで決めましょう(=民主主義)という発想です。これは、いろいろな思想を批判し、評価し、よりよいものを作っていくだろう、少なくとも国民にはそういった能力がある、という極めて文化水準の高い、ハイレベルな国民像を前提にしています。

実際に日本国民がそこまでレベル高いかどうかはさておき、「たとえファシズムの政党だって表現の自由の一環として認める」というのは、これを禁止するドイツ憲法よりも進んでいるんじゃないか、そう思っていました。

ただ、最近、以前のエントリにも書いたとおり、それは単に日本が(比較的)単一民族国家であり、ある意味でコスモポリタンな文化に達していない、ある意味でプリミティブなレベルに止まっているから可能な憲法の設計であり、その意味でドイツの方が進んでるのかも、なんて思ったりもしてました。

だから、表現の自由であっても、人種差別に係るものを禁止するとか、ベーシックなルール(=規制)を設けるのが必要なんじゃないか、と感じていました。



●でも、お上品な文明社会を目指すとついつい忘れてしまうコトバの側面

もちろん、これは総論において間違っていると思っていませんし、「議論」の場面では特にそうだと思います。

でも、この映画を見るまで、すっかり忘れてました。コトバって「議論のツール」であるほか、「アート」(*3)なんですね。内に秘めたエネルギーの爆発によって外に出たコトバって、まさにアートで、コトバって本質的に暴力的な要素を含む(少なくともその可能性を含む)ものだということを。

きっとラップのフリースタイルをやっているMCが「このコトバは使うとまずい」とか「このコトバ使うと訴えられちゃうかも」なんて思っていると、変に萎縮しちゃってお上品になっちゃうかもしれない。でも、アートってそんなものじゃなくて、もっと爆発するものなんじゃないかと思うんです。

だから、総論的には一定の限度で表現の自由の内容規制をすることに賛成なんだけど、そもそもアートとしてのコトバが発せられる場面においては、必然的にコトバが上記規制をやぶってしまうこともある、仮に規制が望ましいとしても根本的にそういった表現を撲滅することはできないし、あってはいけないかも。

そう考えると、特にアートなコトバが問題になっている場面での表現の自由の規制って難しい。アートだったら何でも許されるのか?逆に許されないとして規制したとしても、アートである以上その規制を破った形で表現されるアートが必ず出てくるという本質があること、など、すごーく難しい。机の上でお上品に考えているだけじゃだめだよね、と改めて思いました。


(*2)相手を罵倒するようなラップをアートと呼ぶのに抵抗があるかもしれないけど、「アート」って、人がうちに秘めたエネルギーを何らかの形で人(自分も他人も含む。)に認識させるために行ったアウトプットだと思っているので、やはりアートなんじゃないかと。あと、何がアートかを決める行為自体も恣意的になってしまうので、はなから「あんなものはアートじゃない」と決めつける態度には疑問を感じざるを得ません。


●エミネムの目つき(おまけ)

映画で一番心に残っているのが、エミネムの大きく見開いた目つき。どんなに相手方にぼこぼこにされても、変わらないし、むしろそれによって闘志が燃えているような感じがした。

8マイルロード(*4)を渡ろうとするからこそ生まれるこの目つきかもしれない。

最近、こんなハングリーさがなくなったな、とふと思った。そういった目つきをしているとき、自分という人間が持つ能力はもっともっと引き出されていくんだよな、とも。

ちょっと就職して、ある程度稼げるようになって、そうした小さな安定が生まれるようになると、ついつい意識してても忘れてしまう。8マイルロードを渡ったら、エミネムのあの目つきは優しくなったのだろうか。

そういえば、司法試験受けているときとか、ちょっと映画に出てくるエミネムみたいな目つきをしたかも。ああいった目をして一つ一つコマを進めていくとき、全神経を集中させていて、ある意味でともて気持ちが良い。スリリングであり、また、自分の中にエネルギーを感じることができるからかもしれない。

いろいろと考えること、感じることの多かった映画でした。


(*4)ウィキペディア(「8miles」12月10日)参照↓
「ミシガン州デトロイトには都市と郊外を隔てる境界線がある。
「8マイル・ロード」。この道は富裕層と貧困層、そして白人と黒人とを分けるラインになっている。」

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by sipoftip | 2007-12-11 04:54 | 映画

ラップのフリースタイルと対抗言論~8mile~




相変わらず時代にすごーく遅れていますが、エミネムの自伝的映画「8mile」を見ました。個人的には、(世間より5年位遅れながらの)大ヒットw

しばらく(少なくともメンタル面は)ヒップホップand/orラップ的な状態を保ちたいと思います♪エミネムやそもそもラップ自体にそこまで惹かれたことはなかったけれど、この映画を機にはまりそう。おそらく、歌詞がずいぶんと聞き取れるようになったからかも(うん、そうだと信じよう。)

「アイドル映画だと思ったら社会派の自叙伝だった」という評価が一般的であるようで、随分と趣を異にしますが、若干感じたことを備忘代わりに。


●MCバトルはある意味で表現の自由市場かも

まず驚いたのが、MCバトルで観客はほとんど黒人なのに、エミネムがフリースタイルのラップを決めると「WOW!」とかいって、超盛り上がるところ。音楽は人種や国境を超えるというけれど、相手を罵倒するようなバトルでニガーとかsuper offensiveなコトバばかり使っている場でも、スキルが高いとみんなアガる。すごいいいな、と思いました。

翻って考えてみると、普段生活していると、いいと感じたものをいいという局面が少ないような気がします。大人だって上司のコトバを気にしたり、子供だって、いじめとかもあるから、感性が周囲に遠慮して萎縮しちゃう場面が多いんじゃないかと思います(*1)。

「何を言うか」ということがピュアに評価されるのではなく、「誰が何を言うか」という総合的な判断がついつい頭をもたげることも多いんじゃないかなと。

そうやって考えると、白人のエミネムがラップのバトルで黒人を罵倒して、スキルを華麗にみせつけちゃうと、みんなそれに歓声をあげるってのは、とても文化的にレベルが高いなーと思います。そうやって、まったくバイアスを入れずに感性に身をゆだねるってなかなか日常生活では難しいけれど、ちょっと意識してみようかと。

(*1)なお、弁護士の場合、パートナーであってもアソシエイトであっても、法律論では対等の土俵で闘い、1年目でもパートナーの気づかない視点や切り口を提供すれば評価されます。そういった議論の場では、純粋に発言の質だけで評価される世界であり、ある意味で上記のラップのバトルをする世界に近いかもしれません。但し、アウトプットの評価は「スジが通っているか」「合理的か」というような指標で判断され、「感性」では判断されません(当たり前ですけど)。


●フリースタイルにおける対抗言論(*2)

「対抗言論の理論」とは、例えば、ある発言によってある人の名誉が毀損されかけたとしても、
それが反論可能であれば、その発言はよしとしましょう(e.g.名誉毀損にはならないとする、など)という考え方です。

もともと、アートや学術の分野において、表現をどんどん認めてお互いを刺激し合った方
がより良いものができていく、そうすると良い社会になるんじゃないか!という考えに基づいて
認められる考え方です。

通常は、これって「反論可能な言論活動」に限って適用されると考えられていて、例えば、反論不可能なコトバ(お前はイエローだ、とか、ニガーだとか。)は反論の余地がないoffensiveなコトバなので、対抗言論によって違法性がなくなったりする場面は限られているとされています。これを「差別的な言論」なんていったりもします。

そうすると、ふつーは相手を罵倒するラップのバトルの場合、名誉毀損がじゃんじゃん成立しちゃいそうです(少なくとも日本法においては)。だけど、映画を見る限り、どんなにオフェンシブな
コトバで侮辱しても、それに対して反論し、それが一瞬のバトルという形をとって展開されている。そういうことになると、そもそもそういったラップのバトルという場に法律が踏み込んで「それは違法だ!」という必要がないわけで、侮辱的・差別的な言論には対抗言論は適用されない、という教科書的な理解が必ずしも通用しないかもなー、と感じました。


(*2)この項は憲法学で学ぶ発想をベースにしており、オオスジは間違っていないはずですが、ざっとネットで検索しても良いサイトが見つからなかったので、学術的に正確性を期しているわけではないです、念のため。

(8mileは続く)
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by sipoftip | 2007-12-11 04:44 | 映画

手紙 by 生野慈朗・東野圭吾

↓見ました♪

手紙 プレミアム版

賛否両論あるようですが,沢尻エリカが相当可愛かったことを
差し引いたとしても,かなり良かったと思います。

【以下,ネタバレがあるので,見る予定の人は注意!】

●若干の突っ込み


①会長が直貴に対して「君も差別を受け入れて,逃げないで,そこで生きなければならない」と諭す場面について

この台詞について,私は差別されない場所に逃げられるのであれば,
それもあり得る選択肢だと思います。差別はやはり辛いので,
会長のような思考では生き方を限定することになりかねません。

なお,私が東野さんだったら,会長に上記発言をさせる際に,会長を
リウマチなどの疾病を持つキャラクターにします。会長が歩いていく
後ろ姿でびっこひかせるとか。

だって,主人公と同じハンデとは言わないまでも,ハンディキャップから逃げずに
戦っている人が上記台詞を言うのは,全然説得力があると思うから。

②兄貴の犯罪について

・まず,弟の学費に困る→犯罪,というステップがあまりに早いと思う。
 
 映画では弟と精神的な絆のある兄貴というキャラであり,兄貴は
 憎まれキャラにはなっていません。でも,そのキャラを説得的に 
 根付かせるためには,やはり何故兄貴が犯罪をしてしまったのか?
 その部分が知りたいですね(時間の都合でカットしたんだろうけど。)。

 弟の学費に困った人は数多くいるけれど,だからといってみんな犯罪者に
 なるわけではない,そこにはもう一つのステップがあるはず。そのステップを
 理解しないと兄貴のキャラクターの本質的な部分は見えてこないはずなので。
 
 ちなみに,兄貴を取り調べるとしたら,ココがポイントになるはずです。

③直貴が倉庫にとばされたことについて

・この行為は違法な可能性もあると思います。
 親戚に犯罪歴があるという理由での異動であり,上司も明言してたので,
 勝てたかも??俺がついてればー,とか思ってみたり(苦笑)。

・ちなみに,法律的には,親戚に犯罪者がいることの告知義務があるか
 という点も一応論点にはなるかもです。調べてませんが,多分ないんじゃないかな?

●ちょっと昔を思い出した

殺人者の兄を持つことで差別を受ける直貴。

確かに,うまくいきそうなときに,自分じゃコントロールできないことによって
次々と失敗する。それを宿命のように抱えてしまった直貴の本当の辛さは,
自分には分からないかも知れない。

また,刑事事件を代理人の目で見ることはあっても,本当に被害者の気持ちになれるのか,
被告人の家族の気持ちになれるのか,それはとても難しいし,実際には
不可能だと思う。

そういった類の強い感情に(擬似的にであっても)触れることで,
日常に忙殺される自分を省みることもできた気がする。

普通の人の普通の生活の中に内在する問題は,ビジネスや法律とかとは
比べものにならない複雑さを備えている。刑事事件をめぐる人間模様の複雑さや
単に机の上だけじゃ片づかない世界のリアルがある。

殺人犯を兄に持つ人はさほど多くないにせよ,どんな人も大なり小なり同じ構造の問題を
抱えているんじゃないでしょうか。

他人から不当に差別されたり,自分がコントロールできない部分で希望が叶わなかったり。

細かな日常にこそ難しく,かつ人間らしいテーマが沢山ある。
刑事事件を数多く見た修習生時代に感じた気持ち,最近は仕事に忙殺されて忘れ気味だったのですが,
久々に戻ってきました。それは結構エキサイティング♪

●構成

確かに,ストーリーとしては,予定調和かもしれません。

だけど,「手紙」をモチーフに展開されるストーリーの構成は純粋に綺麗だと思いました。

手紙は,最初,兄弟を精神的につなげる役割を果たす反面,
その役割が増すにつれて,弟の現実の生活に与える影響も大きくなる。

手紙には,そんな兄弟をつなげ,そして,傷つける二面性がある。

ストーりーが進むにつれて,

・沢尻が直貴になりすまして兄に宛てた手紙
・沢尻が会長に宛てた手紙
・剛志が被害者に宛てた手紙

と様々な「手紙」が登場し,手紙を通じて,色々な形でストーリーが展開していく。

社会には,いろいろな人がいて,色々な形でつながっている。
そして,いろいろな人がいる分だけ,いろいろな気持ちがあって,それが
ぶつかったり,共鳴したり,反発したり。

いろいろな作用がある。
そういった,いろいろな登場人物の気持ちのつながりを象徴するモチーフとして
「手紙」があるのかも。

ストーリーの展開を,そんな「手紙」を軸に絞ったことで,枠組みとしては
シンプルにまとまっていると思う。そのシンプルな一つの枠組みに「手紙」
の中に込められたさまざまな複雑な気持ちを入れ込むことで,全体として
いい作品になっているのではないか。

エセ国語の教師みたいなコメントだけど,素直にそう思いました。

と以上のようにコメントしてみたものの,映画を見てすぐの方がストレートな
気持ちで書けたかも。次回はそうしよっと。
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by sipoftip | 2007-08-28 02:51 | 映画

不都合な真実という好都合なトレンド

見ました。

「不都合な真実」

(特にアメリカでは)かなり衝撃的な作品と評されていて,
多くのCEOも必ず話題にするいわばトレンド?旋風?
を巻き起こしたとして,期待して見たのですが。。

うーん。。。

いまいちピンと来ない。

なぜか(??)

おそらく小学校,中学校で学んだ温暖化の理解について,
最近のアップデートされた事実が加わった感じであり,
何かこうパッと目を開かせるようなものがなかったかもしれません。

●それでもこの映画のすごいところ

だから,この映画にすごいところがあるとすれば,

「京都議定書に調印していないアメリカの世論において,
 環境問題を議論の土壌に挙げたこと」

ではないでしょうか?これによって。。。。

【仮説(=勝手な推測)】
 ①圧力団体等の既存の反対勢力が,一般世論に対して
  ある程度説明責任を果たす必要が生じる。
 ②「一般に理解される環境問題のレベル」についてみんなが共通に使える
  リファレンスができた
 ③このトレンドを利用する個人,団体が増えることで,環境保護の活動に
  レバレッジがかかる
 ④投票数の大半を占める市民層に定着させる
 (→選挙活動で環境問題の比重が高まる→政策に反映され易くなる)

などの影響があり,その意味で客観的な内容の深さよりも,
このような作品が存在すること自体に意味があるような気もします。

穿った見方をすれば好都合なトレンドですが,環境保護が進むなら
みんなにとっても好都合。ただ,環境問題はなぜウソがまかり通るのかというような見解もあるようなので,検証の姿勢は忘れられませんね♪


(実は都内です。どこかというと。。。。)

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●プチ!?新たな発見

自分的に新鮮だったのは,ゴアさんが

「オゾン層の問題はみんなで力を合わせて解決した!温暖化もやればできる!」

という論調だったこと。

そうなの?オゾンって解決済み?相変わらず世間から取り残されてるなー
とか思いつつちょっとサーフ♪

********オゾン層(fr Wiki)*****************
「このままオゾン層が破壊され地表に有害な紫外線が増えると、皮膚がんや結膜炎
などが増加すると考えられている。 気象庁の観測によると、日本上空においても、
オゾンの減少傾向が確認されている。しかし近年になってフロンガスの全世界的な
使用規制が功を奏したとみられ、オゾンは徐々にではあるが再生されつつある
が、まだまだ予断を許せる状況ではない。
**********************

なるほど。解決済みではないが,進展はしている模様。


次に見たのがここ。

*******************:
「守ろうオゾン層 防ごう温暖化」(by経産省)
http://www.meti.go.jp/policy/global_environment/index.html
*******************

フロンにも色々あるとのこと。

①CFC(クロロフルオロカーボン)
 →オゾン層破壊物質
②HCFC(ハイドロクロロフルオロカーボン)
 →オゾン層破壊物質
③HFC(ハイドロフルオロカーボン)
 →代替フロン(オゾン層を破壊しないけど温暖化)

オゾン対策でCFC(①)とHCFC(②)に代えて
HFC(③)を使おうとしたものの,温暖化の関係で
全部使うのやめなきゃいけないらしい。

上記③の代替フロンも,CO2の数百から数万倍の温室効果を
持つみたい。
(→それなら映画でもCO2だけじゃなくてHFCにも
触れればいーのに,と思ってみたり。)


次に驚いたのが沿革!

1974:米国のローランド教授がフロンが大気中に放出されるとオゾン層が
   破壊されると発見

1985:オゾン層保護に関するウィーン条約
1987:モントリオール議定書(→フロンの規制)
1988:オゾン層保護法
1989:同法による規制開始
1992:気候変動枠組条約(→温暖化)
1995:CFCの消費・生産全廃を1995年末までに達成
2002:京都議定書(代替フロンも規制)
2010:開発途上国のCFC全廃(予定)

ちなみに,日本では,
①蛇口規制(フロンの生産を規制):オゾン層保護法
②既存フロンの回収       :フロン回収破壊法,家電リサイクル法,自動車リサイクル法

①→②という流れらしい。

思ったのが,

(a)この問題自体どうやって発見されたのだろう???
 
 1974年の学者の提唱から条約締結まで9年。
 これを早いとみるか遅いとみるか。

 でも,最初に
  
 「フロンガス→オゾン層破壊」

 の因果関係を立証したローランド教授はすごいと思う(後にノーベル化学賞)。
 
 問題の端緒って掴むのがすごく難しい。そもそも問題があるのか,それが何を原因とするか。
 こんな大きな問題だけど,具体的な端緒はどこにあったのだろーかと思う。きっと

【仮説(=勝手な推測)】
 ①定期的に分析する気象関係のデータでオゾン層が少なくなっているのが
  発見され,その原因を突き止めるのがミッションだった
 ②オゾン層破壊の症状(皮膚ガンとか)から逆算してオゾン層の破壊という減少を突き止     め,さらにその原因をフロンだと突き止めた。

 ②だったら,相当ハイレベルな専門家のコラボだと思い,すごくかっこいいシナリオだけど,
 きっと①かな。でも十分すごいと思います。刺激を受けますね!
 
(b)何がアイデアをrealizeさせたか?原動力は?  

 議定書から国内法まで1年,施行までもう1年,その6年後にはCFC(フロン)を全廃。
 これって,他の政策とかと比べると結構早くない?と思う。でも何故?
 
【仮説(=勝手な推測)】
 ①官僚と政治家が一流の仕事をした。
 ②(他の政策では反対勢力がいるのに対して)フロンを規制するに際して
  強圧に反対できる団体がなかった。
 ③フロンの規制を推進する方向で新たなビジネスチャンスが生まれ,その他 
  財界に政策を後押しするインセンティブがあった。

 ①だったらいいなーと思いつつも,実際は②とかが大きいのかな,と推察してみたり。

 逆に,環境が不可逆的な潮流だと見込んで,そこでコアコンピタンスを発揮するために
 上記③のように流れた,というシナリオであれば,それはそれでとてもエキサイティングだと思うのです。

以上,どちらかというと映画自体に感銘を受けなかったものの,色々と感じたことがあったので,
ざっくりまとめてみました。

今度,時間をみつけて,排出権取引について書きます♪

(有栖川公園。ジョキングコース♪)
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by sipoftip | 2007-07-17 03:15 | 映画

Hotel Rwanda

「Hotel Rwanda」

という映画を見ました。
相当すごかったです。

何がすごいかというと,
映画の舞台となったルワンダ。

ご存じのとおり,ルワンダの部族対立は
一時的に国連の介入により国際社会の注目を
浴び,国連軍を含めた様々な国の軍隊が
部族対立による虐殺を止めようとルワンダ入りしました。

もっとも,その後の泥沼化する内戦の中,
駐在軍,平和維持軍がことごとく引き上げていく。
彼らの保護していた難民,対立部族からの虐殺の危機に
さらされている人達を置いて。

そんな駐在軍のお偉い将軍様達をもてなす
四つ星ホテルのマネージャーが主人公の映画です。
強いて言えば,シンドラーのリスト,ルワンダ難民版,
といえます。

以下,印象に残った台詞等をピックアップしてみました。


「ルワンダの虐殺状況を撮影したビデオが放映されれば,
きっと外国の人も助けに来てくれる」という主人公,ポールの問いかけに対して,
UN軍の将校は,

"They would say "Oh,it is horrible." And they keep eating dinner."

(彼らはその惨劇に驚くかもしれない。だけど,彼らは,そう言った後,
,また夕食に戻るんだよ。ってかんじかな?)

と答えます。


駐在軍に見捨てられたツチ族(当時虐殺の対象となった方)
は,色々なコネを使って外国の有力者に電話をするように
いいます。そのとき,ポールは,

”When you talked them. You have to hold their hand.
You have to let them understand that you would die
if they do not hold our hands.”(記憶なので不正確かも)

(彼らと話すとき,彼らの手を握らなければならない。
そして,彼らに話すとき,彼らにしっかりと理解してもらうんだ。
彼らが一度手を離せば,自分は死ぬのだと言うことを,みたいな?)


いつか,惨事が発生したときに,白人達に助けてもらえるように,ポール
は,白人の乗客らに高級な葉巻,ウイスキーを振る舞うなど,
一流ホテルのサービスを提供し続けた,あのルワンダで。
そうやって,自分がそういった欧米の国とのコネクションを保てている
と信じていたポールに対して,UN軍の将校が駐在軍の撤退を告げるとき,

"Split on me. They abondanded you. Rwanda is worthless for them."

"Why can you be the owner of this hotel? You are not white.
And you are not even nigger because you are African"

といいます。

それでも,ポールは,ホテルのマネージャーとして,そして混乱した従業員達を
統率するため,そして,軍隊にホテルに護衛をつけるように交渉する
ため,彼は常に冷静なホテルマンで居続ける。

そんな彼が,バスルームで全てに耐えきれず,泣き崩れる。



ポールは,フツ族,その妻は,虐殺の対象となるツチ族。
ジャーナリストが,ホテルにてインタビューの際,ツチ族と
フツ族の違いを訪ねたとき,現地の人はこう答えました。

「目,鼻が微妙に違うのかな。だけど,それは侵略をした際に
ベルギー軍が決めたこと。彼らが我々を選別したんだ」

と。そうやって生まれた部族がここまで対立するとは。


ポールの妻,タチアナは,ツチ族。フツ族から狙われています。
政府軍のほか,ホテルの外では反乱軍という民兵の略奪集団が
いつホテルに攻めてくるかわからない,そういったときに,
ポールはタチアナに

「民兵が攻めてきたときは,子供達と一緒にホテルの上から飛び降りてくれ。
ナタで殺されるよりも,ましだから」

そう夫に言われた妻,タチアナは,泣き崩れ,取り乱します。


虐殺の方法につき

「奴等は子供は皆殺しにするんだ。部族の子孫を残させないためにな。」


「ナイロビの蜂」もすごい衝撃でしたが,こちらも相当衝撃を受けました。
かくいう私も,"Oh, horrible, "と言った後,夕食を食べ続ける一人なのかもしれませんが。
そうならないのって,ものすごく難しいと思う。

この映画,いまだ消化できていません(・・;)
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by sipoftip | 2007-01-21 03:08 | 映画