週末を利用してスキーに行ってみた。
数人で連れ立っていってみたのだが、金曜の夜の夜行で出発し、日曜の夜に
帰京という、オカネはないけど元気はある大学生みたいなスケジュールだった(・・;)
だいたい↓な感じのところ。
↓な感じで、景色は素晴らしかった。
●小学生時代のおはなし~私をスキーに連れてかないで(*)~
(*)古いですね。実は映画も見たことがないのですが、ワルノリしてつけてみた(><)
実は、スキーは小学生のときに結構親に連れて行ってもらったものの、その後、高校生のときから数えて、全部で4回くらいしかいっていないから、さほどうまくない。
ちなみに、小学生のときにスキーに連れて行ってもらったのは、母親がスキー部だったから。
子供にもスキーの楽しさを教えてあげたかったからだと思う。
だけど、あまり体力がなく(?というかセンスがなく(?)、しかも、現代ほどにリフトとかの設備が
整っていなかった当時、斜面を登ったり、板をかついだりするのが、結構おっくうだったせいか、
「毎週スキーは疲れる。もうこんな生活は嫌だ。」みたいなことを書いたらしく、息子の日記をふと(隠れて?)読んでしまった母親は、愕然として、それ以来、スキーに連れて行かなくなってしまったとのこと。
母親は、「スキーに行ったよー」と報告するたびに、もれなく、いかにこのときのショックが大きかったかを臨場感あふれるナレーションつきで語ってくれる。まあ、それだけショックだったんだろう。
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でも、まあ、そりゃそうだよなあ。
母親は小さい頃から相当ストイックに水泳をやってきたが、高校になってぱたりと辞めている。
そして、新たに大学で始めたのがスキーだったみたい。それまで、競技スポーツ、しかもストイックな個人競技の厳しい世界で戦っていた母親にとって、大学に入って始めたスキーは、はじめて「楽しむ」ことができたスポーツなのかもしれない。
しかも、競技スポーツとしての水泳と違って、わりとみんなで合宿に行ったり、はじめて個人の
競技スポーツとしての重圧から解放されて、「わいわい」と楽しんだスポーツなんだろう。
それだけに、母親にとって、大学時代に出会ったスポーツ、スキーは、とっても大切なものだったんだろう。
そんな大切なものだからこそ、子供にもその楽しさが分かってほしい、また、仮にすぐにうまくならなくても、将来スキーをやるチャンスが来たときに十分に楽しめるだけの基礎技術は持ってほしい、と思ってスキーに連れて行く、という気持ちもよーくわかる。
スキーへの思い入れが強いほど、また、子供への思い入れが強いほどに、子供にスキーをやらせたい!と思うだろうなー、と思い、毎回母親から当時のショッキングな日記の話を聞く度に申し訳なく思う。
まあ、子供なんて当然親の思い入れに素直に反応してすくすく育つほど簡単じゃあないし(少なくとも私はそうだったはず)、親の愛情と子供のニーズが客観的にずれることはよくある。というか、そもそも本当に子供に必要で、かつ、子供がほしいものとぴったり合致するものを親が提供するなんて無理な話。これはどんな親だってそうで、客観的にすべてがぴったり合う何でまず不可能なんじゃないかな。
だから、親の愛情や親が子供にやってあげることって、客観的な意味に限って言えば、子供のニーズやウォンツに100パーセント対応したものではないはず。でも、それはそれでいいんだと思う。
逆に、客観的には、子供に必要で、かつ、子供がほしいものとぴったり合致するものを親がタイムリーに提供できたとしても、主観的には親がベストを尽くしていなかったり、何か愛情に欠けていたとしたら、そっちのほうが問題な気もする。
確かに、小学校のときに母親がスキーに連れて行ってくれたのは、話を聞く限り、客観的には、当時のワタシのニーズやウォンツと合致していなかったのかもしれない(とはいえ、結構自分としては楽しんだと思うんですが、日記にそう書いてあったといわれてしまうと・・・・・)。だけど、自分の人生にとってとっても大切だったものを子供にも知ってほしい、という思いがあってそうしてくれたのだから、客観的にずれが生じたとしても、そうしてくれたこと自体が恵まれているなあおと思ってしまうわけです。
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ちなみに、小学生のときスキーに連れて行ってくれたのは、母親であり、父親でなかった。
父親は結構仕事で忙しく、なかなか家を空けられなかったとのこと。
確かにスキーは結構時間かかるしなあ。
週末、母親だって、少しでも家にいれば父親に過ごせただろうに。そんな瞬間まで犠牲にして、子供をスキーに連れて行ってくれたことにも、やはり母親が自分がはじめて心から「楽しい」と思えたスポーツの喜びを子供にも分かってほしかったという思いの強さを窺い知れるなーと。そう考えると、単に母親は子供にスキーの楽しさを知ってほしかったからというプラスの思いに加えて、父親と過ごす時間という犠牲も払ってそこまでしてくれたということか。
逆に父親としてもどうだろう。平日は夜遅く帰ってくると子供は寝ており、週末くらいちょっと一緒に過ごしたい、と思ったとしても、子供が母親とスキーに行ってしまったら、あまり会えない。
じゃあ、父親だって、スキーに来ればいいじゃん、ともいえそうだけど、父親だって、いろいろとキャリア形成途中だったとも思うし、家庭を支え、キャリアを展開するために膨大な時間・努力が必要だったのだろう。息子や母親と一緒の時間をすごしたいという思いの狭間において、ぎりぎりの選択をしていたんだろうなあ、なんて思うわけです。そう、特にキャリアとかで色々悩んだり、まだまだ成長しないと、と思った瞬間に「やった方がよさそうなこと」がやまのように発見できてしまう今日この頃の自分と照らし合わせると、この父親のぎりぎりの選択っていうのも結構いまにしてみればよくわかる。
こうやってオトナになって振り返ってみると、小学校時代にスキーに行く、というイベントの裏に潜む、繊細で、複雑な事情がちょっとだけ分かるようになり、その思惑に共感を覚えることもできるようになる。これを人は成長と呼ぶのだろうか。ただ、奇しくも、そうやって分かるようになったときには、そのときは戻ってこない。
もうちょっと、そのときの母親の気持ちや父親の気持ちを分かっていれば、もっと違うように振舞ったかもしれないし、もっと感謝の気持ちをもってスキーをできたのかもしれないけど、そうやって、過去に時を戻すことはできない。まー、人はそうやって生きていくんですかねー!?
でも、今回みたいにスキーを楽しめた!と思ったという感情のルーツをたどってみると、小学校時代に母親が植えた種が自分の中で実ったともいえるかな、と思い、そうやって考えてみると、単にスキーが楽しかった、という以上の感慨を覚えるわけで、そんな思いからちょーっとまじめに書いてみました。
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●すべるすべる
まあ、そんな日記事件からスキーに行かなくなったワタクシでしたが、なぜか高校生のときにスキーに行ったときには、すごく楽しいと感じました。大器ではないけど(?)、晩成なワタクシは、なぜか高校2年くらいのときに突然運動神経がぴょっ!とレベルアップし、全般的にスポーツが楽しめるようになりました。
ただ、大学生の冬にスキーに行ったとき、その翌年の司法試験に落ちまして
「スキーなんて行ってるから試験にも滑るのよ」
なーんていう、ありがたーいオコトバをいただきまして(笑)、それ以来、トラウマ?になってスキーに行ってませんでした(でも、お陰で(?)受かりましたが(笑))。
司法試験に受かってからもバックパック旅行に目が行ってしまい今回は結構久々だったのですが、今回のスキーについて書こうと思ったら、思いのほか脱線したので、次回に続けます。
(つづく)