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LearningとStudying~夜のヒルズでのディスカシオ~

某六本木ヒルズのスタバで僕は抹茶ラテ、Kさん(日本人)はコーヒー、そして、Jは「何とかモカ」(笑)を飲む。

彼は、あと10日位で本国に帰る予定。僕の職場に1年ほど研修に来ていたが、そろそろ帰るのでフェアウェルを!と思っていた。そこに、「日本にいる間にJazzBarにいったことがないから、是非一度言ってみたい」というリクエストがされたので、Kさんと二人でとあるJazzBarに連れて行き、帰り際に立ち寄ったカフェでのこと(JazzBarは別の機会にエントリしますw)

Jは言う。

「Kさんは、大学時代、カナダに留学していたけど、いつも夜はバーとかクラブに行ってた。でも、他の留学生と違って、彼にはたくさんの友人がいた。彼はその留学という一年をとてもuniqueなものにした。その意味で、彼は、right choiceをしたと思う。

人によっては、ずっとライブラリに籠もって勉強する人もいる。でも、異文化にいるんだから、それ以上に大切なことがあるんじゃないのかな。

自分が日本に来る前、ボスに言われた。『うちの会社からも日本に派遣しているが、現在まで、そこまで「successful」だったとはいえない、と。今まで日本に派遣される人はずっと仕事だけに時間を費やすことが多かった。だけど、異文化にいるということの目的は単なる仕事だけじゃない。友人を作ったり、他の文化を色々と体験したり、まさにそういった違いの中でその文化の人とやってみる、ということも重要じゃないかと思う。その意味で、君には今までよりも「successful」な体験をしてきた欲しい』と。」


そうボスから言われて私の職場に送り込まれた彼は続ける。

「だから、自分は色々なことをしてきた。職場でもより多くの人とコミュニケーションをとってきたし、それなりに自分をこの異文化の地、日本で表現してきたつもり。最初からここでの生活は1年間だとわかっていたから、それだからこそ、できる限りのことをやり、そして、楽しもうと思った。だから、あと10日位で日本去らなきゃならないと思うととても寂しい。

もちろん、自分がlazyじゃないことは示さなきゃいけない。でも、それだけじゃなくて、色々大切なことがある。

僕がカナダにいた頃、Kさんじゃない日本人の留学生でも、ずーーっとライブラリに籠もってた人もいたっけ。もちろん勉強は大切だし、そのattitudeも大切。

だけど、ライブラリでずっと本を読んでいる、それを彼らは「studying」というけど、それは単な「reading」でしょ。もう自分たちは「adult」じゃないか。だから、本当の意味での「Learning」がそういったライブラリに籠もるだけで得られないんじゃないかな。それは、特に異文化にいる場合、いろいろな人と友達になって飲みに行ったり、Jazz Barに行ったり、そういったいろいろなことを通じて、人から得るもので、そういうのを「Learning」ていうんじゃないかと思うんだ。」


誤解を招かないように断っておくと、Jはすっごく優秀だし、Kさんもとても賢いだけでなくコミュニケーション能力に長けたオトナ。わたしよりもわりと年上(→失礼!)上だけど、なぜかつるんでいるのですw

もちろん留学中、必死に勉強する必要はあると思うし、ある程度は割り引いて考える
必要があるかもしれない(つまり、彼が相当根はマジメなので、バランスをとるために上記のような考え方をとっているのかもしれない。)。それを考慮しても、何のための「Learning」(*)なのか。それは本当に「Learning」なのか。実際に学術の知識や経験を積むことはもちろん「勉強」ではあるけれども、それは「Studying」。でも、人生という意味では、「Learning」の方が遙かに重要なんじゃないか。特に、そんなに残された人生も長くないことを考えると特にそういえると思う。

結局、死ぬときに残るのは「Learning」(=何を得たか)であって、その多くは友人、恋人、家族その他自分が会ってきた全ての人からすこしずつ「Learning」しているんじゃないかな。現時点までの自分は、「Learning」の積み重ねたものなのかもしれない。

おそらく死ぬときに「Studying」のことを思い出すわけではないだろう。たとえ研究者でもどんなに勉強や研究が好きでも、そこで「Study」したものではなく、それを「Learn」した瞬間を思い出すんじゃないかな。

そんな思いを巡らせながら、Jの話を聞いていた。

(*)ちなみに、ここで「Studying」といっているのは、「学術的により長けること」などを目的としてそのスキルアップをする行為を指し、「learning」ってもうちょっと「自分が人間的に成長すること」を意味するという前提で聞いていた。間違っているかもしれないけどw

****


そういえば、僕がアメリカに高校生のとき、アメリカに留学していたときも、まったく同じことを考えていたっけ。

「この地には1年しかいない。だから、1年たつと、自分は過去の存在になって忘れられちゃうかも知れない。それって、全く新しい場所で、1年間といういわば「短い人生」のようなものを生きているみたいじゃない。じゃあ、その限られた中で、できるだけ多くの人に、できるだけインパクトを与えるようなことをしてみたい。そうすることが、自分にもきっと刺激になるし、何たって自分がどこまでできるか見れるなんて、とてもスリリングじゃないか。」


と、そう思ってた。

そうやって1年が経ち、帰国間際には、かなり彼の気持ちに近いものを感じていた。そんな意味でも懐かしくもあった彼のコトバ。そういえば、彼は別のフェアウェルのスピーチでこんなことも言っていた。

「そう、だからいつもタクシーで家まで帰ったりすることも結構多かったんだけど、最近はあえてなるべく帰るようにしている。あと少ししかこの国にいれないと思うとタクシーに乗るのがもったいなくて。ゆっくりと歩いて、今まで気づかなかった日本の一面で少しでも心に刻み込むようにしているんだ。」


帰国間際には、それまで当たり前だったことが、「極めて限られた時間の中でのもの」であったという当たり前だけど意識的に「認識」するのを避けていた現実に直面する。仮にどんなに「時間」というものが有限なものであると認識し、意識していても、よほど感性を研ぎ澄ませて生活しない限り、やはり日々の日常の中で忘れる。そして終わりになって気づくのだ、ああ、もうほとんど残りが無いじゃないか、と。そして、今まで自分が得ていたもの、身にまとっていたもの、当たり前だと考えていたものが失われゆくからこそ、わずかばかりの抵抗を示すため、または失われてゆき、残りわずかばかりとなったものを、できるだけ自分の中に刻み込もう(internalize)と感じて、感性を最大限にとぎすませる。まるで、水がどうしても溢れてこぼれてしまい、それを手で止めることはおおよそ無理だとわかってはいるけれども、それでもどうしても水が溢れ出るのをふせごうとしてその溢れ出る水の出口に手をのばすような状態なんだとおもう。

ちょっと一瞬思ったこと。こういうのをどこかにつなぎとめておかないと、知らない間にどっかに流れていってしまい、忘却されちゃうので、ブログにつなぎとめてみたw
by sipoftip | 2007-12-15 05:01 | キャリア/コトバ/ロールモデル


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