今日はどうにもこうにも二日酔いがひどかったー。
さらに、すこし胃が悲鳴を上げてしまいました(きっと、そろそろ肝臓も・・・(++;))。
↓こんな感じでした(・・;)
ただ、これは嬉しい悲鳴とでも言うんでしょうか。
本当に有難いことに、連日いろいろな方から壮行会を開催していただいており、いかに人間関係に恵まていたかを再認識する今日この頃です。
* ある期待(ベンチマーク) *
そして、昨日のこと。
僕の出た高校は、秀才を生み出す学校ではないという点で確たる評価を確立している一方で、奇才?みたいな人が生まれる土壌があるとの評価もある。実際に、まとまりがないけれど、何となくアイデンティティーがあるみたい。そして、昨日壮行会をしていただいたのも、そんな高校の諸先輩方。
いずれも、「ひえー、こんな人、本当にいるんだ」というのが素直な感想の方々で、会うたびに自分の立ち位置を見直さざるを得ない。あの先輩方があんなところにいる、じゃあ、自分は今どこにいるんだろうかな?という感じで。
でも、逆に、「そういった人もあり得る。ここまでのキャリアの人もいるのね。」と認識が広がるから、自分に限界を設けようとするときに一歩留まれる、逆に、ストレッチ目標を定めるときのベンチマークになる。そういった意味でも、アイオープニングで、刺激にも事欠かない。
ある先輩が言った。「せっかくなんだから、今まで僕ら先輩がやっていないことをやって欲しいな。是非、自分の息子のベンチマークにもなって欲しいし、そういった後輩を見ているのが楽しみなんだよ。」
「いえいえいえ・・・」と恐縮していると、「きっと、20年後に、今の僕がどんな気持ちか分かるようになるよ。」とのこと(・・)。
* 不満足なオプティミスト *
自分のキャリアに対する自己分析としては、もう少し進めば、ようやくスタート地点にそろそろ立てるかなー、ただ、スタート地点に立てるかもまだまだ怪しいし、もう3跳びくらいは必要だしなー、という状況。巷では、30代は20代で培った能力・経験を十分に活かしながら活躍するとき、といわれているが、果たして自分にその素地があるのだろうか、と振り返ると大いに疑問がある。今までも、その時々の状況に応じて、自分なりに頑張ってきたつもりだけど、そうであっても、こんな程度の感想なのだ。
周りからどう見えようと、「自分は全くをもってまだまだ」という点は変わらない。
そう、一言でいうと、現状に全く満足していないのだ。
これが幸なのか、不幸なのか。きっといずれでもあるのだろう。
でも、先輩の言うとおり、「先輩達の世代がやっていないこと」の方が断然面白そう。
それを渇望する度合いも決して小さいものではない。そういった意味で、トラディショナルなキャリアを歩むことの魅力が、日に日に薄れてきている。だから、進みたいのだ、次に。
じゃあ、HOW?どこにいくの?どうやって?
見えているかな?見えているようで、まだぼんやりしているかな?
もどかしいが、できることから始めておくしかないんだろう。でも、その「できること」の達成すらままならないのが、現実。
ただ、悩んでいるかというと、果たしてそうでもない気がする。心は本能の方向に向かっているわけだし、結局それがどう形造られていくかは、次第に時が明らかにするだろうし、そういった意味で、結構、オプティミストなのだ。
* 別の期待(託された夢) *
とべーにあたり、周りの方から色々とアドバイスを頂いたり、中には、僕の将来のことのを自分の夢のように描いてくださる方々もいる。おばあちゃんなんかは、「あなたがのれんを継ぐのが、おじいちゃんの夢だったんだから、素晴らしいわ。」なんて言うし、「ちゃんとした(安定的な)家庭を作るように」なんていう人もいる。
これらの夢は多くの場合、僕が描くそれと異なる。別に、のれんを継ぐかどうかは、先に述べた「先輩たちの世代がやっていない」断然に面白そうなこと、に比べれば僕にとって遥かに小さな問題に過ぎないし、おじいちゃんの夢だって、それが今の僕を縛ることもないし、意思決定に影響を与えることはないなー。また、安定的な家庭を築くために、収入やジョブセキュリティを優先すると、ものすごく選択肢が狭まってしまうしね。そういった意味で、周囲の人から夢を託されると、まるで異物を口につっこまれたような感覚を覚えることもある。
だけど、他の人が僕に重ねて夢を描いてもらえること自体は非常に素敵なことだと思うし、あえてこちらからそれを潰すようなことはしたくないな、と思う。でも、僕の中の歯車は、彼らとは全く違ったところで回っているようだ。
どちらかといえば、とべーまでの経緯(今までたどってきたルート)を見てみると、おばあちゃんしかり、そういった周囲の期待に沿うようなルート(レール)と非常に重なり合うような気もする。そう思われてもおかしくないな。だけど、ここからどうずれていくか。ずれていく方が断然に面白そう。だけど、周囲の家族には、「期待するレールを今までも来たし、これからもそう行くだろう」という風に感じている人もいる。そういった場合、どんなに暖かい祝福の場においても、とてつもない孤独と距離感を感じることがあるのだ。
* でもやっぱり *
毎日パーティー三昧の日々であって、浮かれているように見える中、まったく浮かれることはできず、色々と思うことばかり。出会いや色々とサポート・祝福をしてくださる人たちに対する感謝の念は尽きないけれど、一方で、キャリアでの根本的な不満足を抱えているようなので、なかなか思うほど浮かれられないのが実情。そんな今日この頃。でもさ、自分としては、先輩が寄せてくれた「ある期待」(=ベンチマークになる)は是非応えたいなあ。というかむしろ、超えたいなあ。
逆に、「別の期待」(周囲の夢)については、おそらく応えられないんだろうなあ。周囲の人というのが、おばあちゃんしかり大切な家族だったりすると、託された期待に応えないことに伴う心の痛みも相当なものがあるかもしれないし、きっとそちらに従った方が楽で、色々なことがスムーズに進むといった事態にも直面するのかもしれない。だけど、応えたときのプライスがあまりにも高すぎる。
だって、プライスは人生そのものなんだから。周囲の人も、きっと僕が人生という対価を支払うことを望んでいるわけではないと思いたい。
ひょっとして、いつか将来これを読んで、自分が「ある期待」をかなえられないままに、「別の期待」に応えているようであれば、僕はすごく切なくなるだろう。さて、また明日から
こんな好奇心や
こんな素直な気持ちを忘れずに、
「ある期待」に応えるためにも、できるところから準備しよっと♪先輩、家族、友人その他の方々に感謝の念が絶えません。
(ひとまずおしまい)